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小室哲哉と小西康陽が、90年代を岡村靖幸と振り返る「流行に乗ったら、早く降りなきゃいけない」

小沢健二が復活した。“90年代の王子様の帰還である。

今振り返ると、たしかに90年代は音楽界にとって有益な時代であった。メインストリートでは小室哲哉プロデューサーが時代を席巻。一方では「渋谷系」がうるさ型のかゆいところに手を伸ばし、その欲求を満たすことに成功していた。

GINZA4月号にて、岡村靖幸が小室哲哉、小西康陽とそれぞれ対談を行っていた。

まずは、小室と岡村。2人は古くからの関係で、今回の対談はそれほど珍しい座組じゃない。このカップリングで特に印象深いのは、90年代に放送されていた小室哲哉司会『TK MUSIC CLAMP』(フジテレビ系)に岡村がゲストとして登場した回である。

我が世の春を謳歌していた小室に対し、あの頃の岡村は病んでいた。太ってるし、視線はおぼつかないし、滅多に外出してなかったのか、そもそも人と接するのに慣れてない。「後輩・岡村靖幸を先輩・小室哲哉がカウンセリングする」的な様相を呈したあの日のトーク内容は、強烈に記憶に残っている。

しかし、今の岡村は好調である。小室に関しても肩の力がいい感じに抜け、良い齢の取り方をしているように見える。そんな2人による久々の再会は、岡村の「20年、いや、21年ぶりですかね」という言葉から始まった。

曲だけじゃなく、ジャケット、ビデオ、タイトルのフォントの大きさまで口出ししたかった

シングル「OUT OF BLUE」でデビューする以前、19歳の頃から岡村が作曲家活動をスタートさせていたのは有名な話。ソングライター・岡村靖幸が初めて提供した曲は、渡辺美里の2ndシングル「Growin’ Up」である。

当時(198586年ごろ)、渡辺美里チームでメインソングライターの役目を担っていたのは小室哲哉と岡村靖幸。大雑把に分けると、ポップ寄りの楽曲を小室が、ファンキーな楽曲は岡村が美里に提供していた。

岡村 どっちの曲を次のシングルのA面に採用するか、毎回コンペをするんです。僕はよく負けました。

小室 そんなことはないよ(笑)。

その後、88年に小室はイギリスへ移住する。音楽プロデューサーチーム「ストック・エイトキン・ウォーターマン」から、ヒット曲制作のメソッドを徹底的に学んだのだ。

小室 彼らのように入口から出口まで、歌手を発掘するところからやってみたいなあって。当時僕は、TMもやっていたし、楽曲提供もやり続けてましたけど、サウンドだけじゃ物足りないなって。それで、ヴィジュアルも含めたトータルプロデュースをするようになるんです。

小室がジャケットデザインやプロモーションビデオ、ジャケットタイトルのフォントの大きさまで意見して制作された最初のシングルは、宮沢りえのデビュー曲「ドリームラッシュ」である。

時代に追われて“20世紀の人になってしまった

小室がジャケットのデザインや写真にこだわったのは、宮沢だけではない。小室全盛の90年代において、特に力を注いだのは安室奈美恵であったという。

小室 「音楽だけで勝負するのは怖かった」というのがあるんですね。特に彼女の場合、当初はカルチャーとして捉えられていて、アムラーと呼ばれた安室ちゃんみたいになりたい女の子たちが渋谷にたくさん出現していたでしょ。僕は、そういう子たちに向けて、「どうやったら彼女に近づけるか」というマニュアルを示してあげたいと思ったんです。だから、『SWEET 19 BLUES』(96年)のジャケットは、安室さんにほぼスッピンで出てもらった。素の彼女を見せてあげたかったからね。

90年代を“HOW TOの時代と定義する小室。見事に時代を捉えきっているが、あまりにも世紀末と共に並走し過ぎただろうか?

小室 90年代というのは、20世紀最後の10年だったから、「すべてが終わってしまうかもしれない」という終末観に覆われた時代でもあったと思うんです。毎日が大晦日みたいな感じがあったでしょ。「21世紀になれば、全部ゼロからやり直しなんでしょ」って。僕は当時、自分自身が完全にそれに追われていたなと思います。だから、20世紀の人になってしまった。21世紀にはスッと移行できなかった。

小室のようなアーティストは他に思いつかない

岡村が思う小室のすごさは、売ることに強くこだわったところだという。

岡村 ほかの人たちは、自分らしくありたい、自分らしい音楽を作りたい、それを第一義に音楽活動をしていたと思うんです。でも、小室さんは社会の声に耳をそばだて、若者の心に寄り添い、メッセージを発信し、そして売る、広めるということにこだわった。そんなアーティストってほかにいるんだろうか? あまり思いつかないんです。

「いまの子たちに『この曲はプッシュされてるからプレイリストに入れとこう』なんて、そう簡単にはいかないんです」と発言したのは小室自身だが、そう考えると彼のようなミュージシャンがこの先出てくる可能性は限りなく低い。

小室は「宇多田ヒカルが僕を終わらせた」と公言している。アーティスト然とする岡村が好調を維持し、様々な挫折を経て達観の域に入った小室。立ち位置が逆転した2017年における2人の関係性は皮肉だ。

ムッシュかまやつの言葉にショックを受ける小西康陽

続いて、岡村と小西康陽による対談を見ていこう。小西も、90年代を象徴する偉大なアーティストの一人だ。

小西 僕は85年にピチカート・ファイヴでデビューしたんですが、(中略)60年代や70年代の古い音楽のようにエバーグリーンで古びない音楽を作りたいと思ってやりはじめたんです。それが90年代になって、突然気持ちが変わった。毎年の流行を追いかけて、忘れられちゃうほうがカッコいいと思うようになったんです。

たしかに、ピチカートやフリッパーズ・ギターらがけん引する「渋谷系」は時代を作り上げた。ちなみに、小西は音楽をレコードでしか聴かないという。決して、CDでは聴かない。

岡村 50年代60年代の音楽が中心?

小西 1974年以降は聴かない。

岡村 でも、当時は、小西さん自身のそういった趣味嗜好が、「渋谷系」ムーヴメントをけん引しているんじゃないかなと感じていたんですが。

小西 それも結局、流行ですよね。僕はその流行に深く関わりすぎたかもしれない。

80年代の音楽、要するにYMO周辺の人たちに対し「どっか行ってほしい」と願っていたと小西は語る。その反面、「渋谷系もうどっか行けと思ってた人がいっぱいいたと思うんです」と、自己分析もできている。時代はまわるのだ。

小西 ムッシュ(かまやつ)の言葉で流行についての名言があって。明け方にタクシー乗ったら早朝のラジオ番組でムッシュがしゃべっていたことなんだけど。「流行に乗ったら、早く降りなきゃね」って。「そうしないと次のに乗れないでしょ」。僕はガーンときた。ホントにその通りだよ、と思った。

岡村靖幸にサインをねだる小西康陽

流行を作った2人の偉大なミュージシャンが、今になって時代と並走したことを後悔している。そんな2人の心境を、異端であり続ける岡村靖幸が探る構図は絶妙だ。

ちなみに小西、対談の終了間際で不意におちゃめな行動を見せた。岡村靖幸が88年にリリースした『だいすき』の7インチシングルをバッグから取り出し「これにサインもらえますか?」と、本人に切り出したのだ。

岡村 うわっ! 7インチシングル! レコードであるんだ! 珍しい!

小西 レア盤です。この曲が大好きだから、どうしてもレコードで聴きたくて、ヤフオクで手に入れました。かなりいいお値段でした(笑)。

いいオチだ。