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2016.10.28

何故日本の文化は正しくアメリカに伝わらないのか。頭を抱える「アメリカン・オタク小説集」

『ニンジャスレイヤー』シリーズの翻訳者の手による翻訳短編小説集『ハーン・ザ・ラストハンター アメリカン・オタク小説集』が10/26に発売されました。この不思議な作品を語るには、幾つかの説明が必要です。

 まず『ニンジャスレイヤー』の説明が必要でしょう。『ニンジャスレイヤー』はアメリカ人のブラッドレー・ボンド氏とフィリップ・N・モーゼズ氏の描くサイバーパンクニンジャ小説であり、濃厚なドラマ性とアクション描写、そしてどこかおかしい日本描写(日本人の一般的な悲鳴「アイエエエエ!」など)がないまぜとなった怪作です。同作品のファンであった本兌有氏、杉ライカ氏などにより邦訳ツイッター連載が始まると、日本でも大ブレイクし、アニメ化もされました。

 そして本作『ハーン』は、ボンド氏から「日本を題材にしたアメリカの同人誌」を多数託された本兌、杉両氏が、膨大な作品群の中から幾つかの短編をセレクトして翻訳し、短編集として出版したものです。

 『ニンジャスレイヤー』もたいがいでしたが、恐ろしいことに収録作全てにおいて日本描写がどこかトンチキであり、各作者がどこまで本気なのか、どこから狙って書いているのか、さっぱり分かりません。全て本気だとしたら、何故ここまで日本の文化は正しくアメリカに伝わらないのかと頭を抱えたくなってきます。

 例えば、『エミリー・ウィズ・アイアンドレス ~センパイポカリプス・ナウ~』(エミリー・R・スミス著)では「センパイ」という語の概念が異様に拡張されており、通常の「先輩」の意味には留まらず、スターウォーズの「ジェダイ」のような強大で神聖な存在といったニュアンスが付与されています。

 無数のセンパイたちを束ねるリーダー的なセンパイは「アルファ・センパイ」と呼ばれ(アルファブロガーのイメージ?)、タイトルにも使われている「センパイポカリプス」とは、「光のセンパイと闇のセンパイの最終決戦の日」とのこと。『ニンジャスレイヤー』の「カラテ」も、空手やクンフーやチャクラなど、異様に概念が拡張されていますが、なぜアメリカ人はすぐに日本語の意味を拡張してしまうのか。

 表題作の『ハーン・ザ・ラストハンター』(トレヴォー・S・マイルズ著)は、魔狩人のラフカディオ・ハーン(a.k.a.小泉八雲)がノッペラボウやベトベトサンなどをウィンチェスターライフルやダイナマイトで狩り殺すハードボイルド・オカルトアクションです。

 ラスボスのオキクは「皿を数え終わると、対象の心臓を破裂させて殺す」という特殊能力のような呪い技を身に付けており、極めて強大なユーレイとして描かれています。われわれ日本人の感覚では「オキクをダイナマイトで倒せるの?」と考えてしまいますが、アメリカの古典ホラー『インスマウスの影』でも最終的にはダイナマイトがカタを付けたわけですし、爆発物への強い信頼はさすがお国柄と言った感があります。

 収録作は概ね日本描写がトンチキながら、作品としての熱量、クオリティはどれも素晴らしい物ばかり。ですが、個人的白眉は田舎ホラー小説『ジゴク・プリフェクチュア』(ブルース・J・ウォレス著)でしょうか(敢えて訳すなら『地獄県』)。アメリカの旅行者たちが日本の田舎村で田舎者に襲われて虐殺される話です。

「都会人が田舎に行ったらイカレた田舎者に襲われる」という〝田舎ホラー〟は『悪魔のいけにえ』『ヒルズ・ハブ・アイズ』などホラーの一つの典型ではありますが、本作ではツアー客が「篠山県」という架空の県で酷い目に遭います。以下は主人公ジョシュアが篠山県の住民に襲撃され、拉致されたシーンの描写。

ジョシュアは目を開いた。狭い額と薄汚れた顔、虫歯だらけの乱杭歯が目に入った。反射的にジョシュアは手を払いのけ、身を起こして後ずさった。
「アッハ! アッハ! アッハ!」「ホーウ!」「ホーウ!」「ホーウ!」
 男たちは彼を指さし、手を叩いて嘲り笑った。男は三人。一人はデニムのツナギ姿、一人は黄ばんだタンクトップ、一人は乾いた血でピンク色に彩られた白いワンピースのドレスを着ている。

流石にそんな日本人はいないんじゃないかな。ちなみに現地人の男がワンピースを着ている理由は……

背格好と年齢感が服装に何一つ噛み合っていない。ジョシュアは直感する。全て略奪品なのだ。略奪品を、なんの意識もなく、ただ身に着けているのだ。

すごい。文化がない。いくらホラーだからって日本人を何だと思ってるんだ。

 ですが、こんな彼らの家にもエアコンやテレビがあったりするのです。作中でもこう言われています。「テレビを見たり、エアコンをつけたりする人間が、なんの躊躇もなく人を襲い、狩って、食肉にするというのか。……するのだ」。一体どういうことなんだ。コワイ!

 ですが、この作品は単に凶暴で異様な日本人が出てくるというだけに留まりません。最初は怯えるだけだった主人公のジョシュアですが、一度反撃を始めると、そこはさすがはアメリカ人。銃や鉈を手に、怒涛の攻勢に打って出てランボー並の活躍で篠山県人と渡り合い始めます。ジョシュアの返り血まみれの大活躍には、救出されたヒロインも彼の隣でドン引きです。

 凶暴化したアメリカ人が篠山県人と互角以上に渡り合う描写は、それによって互いの凶暴さを相対化する狙いがあると思われます。「篠山県人は凶暴だが、僕たちアメリカ人だって一皮剥けば同じ、野蛮な獣さ」という人間の根っこに根ざした恐怖を作者は描いているわけですが、日本人をこんな描き方しといて、今更「同じさ」とか何言ってんだ、という気がしないでもありません。

 そして、そういった狙いは横に置いといても、「アメリカ人がイカレた蛮族をブチ殺していくとスカッとする」というカタルシスは否定しがたく存在します。ハリウッド映画の洗脳なのか、否応なく胸がアツくなっちゃう。「いいぞ、やっちまえ!」ってなる。しかし、時々、「あれ? これ、やられてるの一応日本人だよな……」という気持ちが鎌首をもたげてきて、とても複雑な気持ちにさせられる良作です。