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“名勝負製造機”藤波辰爾のベストバウトは、誰が考えてもアレしかない「週刊実話」シリーズ「俺の名勝負」

言うまでもなく、プロレスは「個人競技」ではなく「団体競技」である。対戦相手、レフェリー、はたまた観客を巻き込んで試合は作り上げられていく。

選手はよく「アイツとはやりやすい」と口にするが、格闘技だとこれは火種になる。言わば、苦手意識がないことの表れであり、“くみしやすい相手”だとぶっちゃけてるのと一緒だ。それって、下に見てるってことじゃない!
一転、プロレスにおいては最上の褒め言葉として機能する。あの選手と闘えば、満足な試合へ到達することができる。地力以上のものを発揮することができる。天才肌にのみ許された特性を持つ選手は、他者からのラブコールがひっきりなしになる。無闇に的にされてしまうのだ。

藤波辰爾(辰巳)ほど、多くの者からライバル視されたレスラーはいない。長州力はもちろん、木村健悟(健吾)、剛竜馬、ビッグバン・ベイダーが、藤波のことを“恋人”だと捉えていた。
全日本プロレスマットで行き詰まりを覚えた長州は「メンテナンスが必要だ」と藤波を恋しがり、藤波とでしか名勝負を作れなかった剛は20年以上にわたり藤波を追い続けた。あの前田日明でさえ「寄港する先がなかったUWFがある島にやっとたどり着き、無人島だと思ったら仲間がいた」と、藤波へ感謝の意を口にしたのだ。

■「この試合を最後に、猪木は引退するのではないか?」
『週刊実話』にて「俺の名勝負」と題したレジェンドレスラーのインタビューシリーズが連載中。第1回の天龍源一郎に続き、9月7日号掲載の第2回にゲストとして登場したのは藤波辰爾だ。

藤波は“名勝負製造機”である。挙げるとキリがない。「名勝負数え唄」と呼ばれた長州力との抗争を筆頭に、前述の前田日明戦、剛竜馬戦、もしくはチャボ・ゲレロ戦辺りも忘れ難い。

さて、本人がベストバウトに挙げたのはどの試合か? それは、1988年8月8日、横浜文化体育館で行われたアントニオ猪木との試合。60分フルタイムを闘い抜いたIWGPヘビー級王座の防衛戦であった。
プロレスファンに聞いたら、誰もが予想するであろうアンサーだ。藤波辰爾の生涯における最高試合は、絶対にこの師弟対決しかありえない。

当時の時代背景を簡単に説明しておきたい。遡ること3年前、1985年に藤波はタッグマッチながら猪木から3カウントを奪取している。しかし、ドラゴンスープレックスが炸裂し、レフェリーのミスター高橋がマットを3回叩いた直後、猪木がふと見せた哀愁の笑みは余計にファンを虜にさせてしまう。この一戦でファンに世代交代を印象付けることは難しく、藤波自身も「それで猪木超えを果たしたという気持ちはなかったですね」とコメントしている。

しかし、今回は立場が違う。王者・藤波への挑戦権を争うリーグ戦で長州と対戦した猪木は延髄ラリアットで完璧に3カウントを奪われており、しかもその前日には6人タッグながらやはり長州からピンフォールを奪われている。
結果的にリーグ戦を制し、藤波への挑戦権を手にした猪木であったが“1988年のアントニオ猪木”はすでに崖っぷちに立たされていた。「藤波戦を最後に猪木は引退するのではないか?」と、ファンは自然と予感していた。

■「もし僕が勝っていたら暴動が起きてましたよ」(藤波)
王者・藤波は、この頃35歳。プロレスラーとして脂が乗り切った、まぎれもない全盛期だ。一方、挑戦者・猪木は45歳。今では公然の事実だが糖尿病を患っており、しかも同年5月にはジョギング中の負傷で足の親指を骨折。“落日の闘魂”というフレーズはあまりにふさわしく、観客はある種の覚悟を持って会場の横浜文化体育館(猪木の地元は横浜)へ馳せ参じている。

しかし、試合が始まると、両者の動きは目にも止まらない。スピーディなロープワークを仕掛けたかと思いきや、じっくり展開されるグラウンドの攻防は新日本プロレスの原風景のよう。しかも、藤波はジャイアント・スイング、猪木はアルゼンチン・バックブリーカーと、決して普段は見せない秘技を引っ張り出してくる2人。プロレスラーとしての奥深さを感じずにいられない。
「改めて思うのが猪木さんのすごさですよ。あのとき45歳、それもいろんな障害というか負担を抱えている中で、60分間の最後まで闘志や動きが衰えることがなかったんですから」
「猪木さん自身も引退を間近にして、きっと心のどこかで『選手として燃え尽きたい』『出し切りたい』というものがあったと思うんですよね。だから僕が感じるに、あのときは猪木さんが最後に燃え尽きた試合だったと思います」(藤波)

何度も言うが、この試合は60分フルタイムドローという結末に終わっている。これは、王者・藤波が防衛に成功した形だ。
しかし、藤波はこの先も“猪木超え”を果たせずじまいであった。この点が、ライバルの長州とは異なる。
「試合の前には猪木さんが“負けたら引退”という報道があって、ファンもこの試合が大きな山場になると感じていたのでしょう。(中略)あとで映像を見たら、テレビカメラが会場の絵をずっと追っていくときに、お客さんの悲壮感まで伝わってくる。あれじゃあ、もし僕が勝っていたら暴動が起きてましたよ」(藤波)
そんなことはない。ファンはある種の覚悟を胸に会場へ足を運んでいたはずだ。しかし、今から考えると、やはりこの一戦は「時間切れ引き分け」が最高のハッピーエンドだったように思う。

その後、“飛龍革命”を推進する藤波は89年に腰の故障で長期欠場へ突入。一方の猪木は1998年まで現役を続け、東京ドームのドン・フライ戦で最後の花道を飾っている。ただ、正直な気持ちを言うと「猪木は藤波戦で引退していれば良かったのに……」と心に秘めた往年のファンは少なくないだろう。

とは言え、やっぱり猪木は凄い。というのも、今回の藤波が選んだベストバウトは猪木戦で、前回の天龍が選んだベストバウトも実は猪木戦なのだ。
闘魂の残り香は、消そうと思っても消せるものではない。