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「好勝負」だらけの天龍源一郎本人が選ぶ「名勝負」とは何か「週刊実話」インタビューシリーズ「俺の名勝負」

一昨年に現役を引退した元プロレスラーの天龍源一郎だが、とにかく彼には好勝負が多い。常に全力勝負、相手の技を限界まで受け切るファイトスタイルゆえ、それは当然だ。(常に全力のステージを続けるももいろクローバーのことを「アイドル界の龍原砲」と呼ぶ者もいたほど)
しかし、「好勝負」と「名勝負」の間には深くて長い川がある。迂闊に「名勝負」の三文字は使えない。歴史に残る一戦でないと、この称号はふさわしくないからだ。

天龍の名勝負といえば、何がある? まず私が思い浮かべるのは、絶体絶命の状況から大逆転パワーボム二連発で勝利をもぎ取った「天龍源一郎vsジャンボ鶴田」(1989年6月5日 日本武道館)だ。この一戦は、同年の「プロレス大賞」ベストバウト(年間最高試合)にも選ばれた、プロレスの完成形である。
他に挙げるならば、究極のミスマッチで天龍の新境地を開拓させた「天龍源一郎vsランディ・サベージ」(1990年4月13日 東京ドーム)の人気も高い。プロレスを知り尽くした日米の両達人による一戦は、予想外のカタルシスを日本の観客にもたらした。「力道山vsシャープ兄弟」を思い出させるシチュエーションでもあるが、それでいてサベージの株が高騰した現象は平成の幕開けにふさわしい。

■他人事のような感じでいたら、猪木に落とされていた
『週刊実話』が8月24、31日合併号より「俺の名勝負」と題してレジェンドレスラーのインタビューを掲載。第1回に登場したのは、天龍源一郎である。

天龍本人が“思い出の試合”として選んだのは、なんと「天龍源一郎vsアントニオ猪木」(1994年1月4日 東京ドーム)であった。
この一戦は、序盤で記憶に残るハイライトシーンが出現する。まずは、当時の時代背景を説明しておきたい。1993年、コロラド州デンバーで第1回大会が開催された「UFC」において、ホイス・グレイシーはチョークスリーパーを武器に無傷で優勝。流行に敏感な猪木は、“魔性のスリーパー”としてプロレスのリングにチョークスリーパーを導入する。この姿勢は、天龍戦でも変わらず。東京ドーム超満員の観客を前に、一瞬の隙を突いて天龍を落としてしまった。
「腕が喉元に入ってくるのが分かって『ああ、これがアントニオ猪木のスリーパーか』って他人事のような感じで、それで気が付いたときには、もう長州から顔面を叩かれているときだったんですよね。完全に落ちてしまって、その間のことはまったく覚えてないんです」(天龍)

しかし当時の猪木は全盛期をとっくに過ぎており、見るからに頑丈な天龍の肉体と見比べると「華奢」と言って差し支えないコンディション。しかも引退を視野に入れた猪木は、試合をチョイスして出場する状況にあった。
「その力がどれほどのものなのか、最後に試してやろうといううぬぼれも少しありました。でもそれ以上に、やめる人に無様に負けてはいけないという、そっちの気持ちの方が強かったですね」(天龍)

結果、天龍はパワーボムで猪木を切って落としたが、カウントスリーが入ったことに気付かない猪木はそれでも天龍に覆いかぶさって向かっていく。その前に一度落とされた天龍も混乱状態にあり、当人たちには勝ったのか負けたのかわからないフィニッシュだったようだ。

■「猪木さんに勝った時点でリングから引いていたら格好よかっただろうな」
その後の天龍の振り幅は、物凄い。大仁田厚を相手に電流爆破マッチに挑んだり、UWFの主力選手であった高田延彦と交わったり、女子プロレスラーである神取忍とシングルマッチを実現させたり。自らが率いる団体・WARの所属選手を食わせるためとは言え、「ジャイアント馬場とアントニオ猪木をピンフォールした唯一の日本人レスラー」とは思えぬなりふり構わなさである。
「今でもよく言うんですけど、猪木さんに勝った時点で『もう腹いっぱいだ』ってリングからスッと引いてたら、格好よかっただろうなって振り返ったりもします(笑)」(天龍)

天龍にとって猪木戦は「プロレスラーで居続けることの存在価値をいろんな意味で持たせてくれた試合」だという。